歴史の窓
樋口季一郎将軍との出会い
     
ユダヤ人二万人を極寒から救出
 堀 徳郎
  Hori  Tokuro
「北奥春秋」4号(2007 夏の特集号)より
002 山 田 良 政
001 樋 口 季一郎




 ナチスの絶滅政策からのユダヤ人救出については、リトアニアの杉原領事の業績が「六千人の命のヴィザ」として今日広く知られるようになった。ところが、樋口季一郎将軍の二万人救出の業績は、軍人であったせいか、あまり知られていないのではなかろうか。私自身は、神戸に来たユダヤ人については、「少年H」の話や、ネット上で少しく状況を覗いたことがある程度で、恥ずかしながら全く無知であった。ところが、ある偶然が将軍との突然の出会いを用意してくれたのである。

 昭和二十年八月九日早朝、アメリカ機動部隊の艦載機が八戸を襲った。その前夜から鮫港に仮泊していた海防艦「稲木」は単艦よく戦ったが、三時間に及ぶ死闘の末、ロケット弾が対潜水艦用の爆雷に命中、誘爆を起こして遂に沈没した。この激闘で二百名余の乗員のうち山田忠太艦長以下二十九名が戦死、八十余名が重軽傷を負った。その一週間後、戦争は終わったのである。この戦闘を終始目撃した山根勢五氏の詳細な記録があり、また蕪島には稲木乗員の慰霊碑もあるので御存知の方も多いと思う。この艦の砲術長として、各砲座員を指揮して戦ったのが仙台出身の橋本嘉方中尉である。

 橋本中尉は大変近い従兄弟が、八戸市内渡辺外科の渡辺英敏先生であったこともあり、ますます八戸を第二の故郷と感じておられるとのことである。現在、橋本氏は札幌在住と伺い、母の葬儀で行った折り幸いにもお目にかかることができた。その出会いで、米軍作成による八戸空襲の記録等を頂くことができたが、お話の中で、橋本氏の奥様のお父様、つまり岳父が、終戦当時、北海道、樺太、千島、アリューシャンを管轄する北方軍総司令官であった樋口季一郎将軍と伺った。
「もしや満州ハルピンの特務機関長として2万人のユダヤ人の救出をした方ですか」とお聞きしたところ、「そうです」とのお答えで、大感動であった。はるかな時間と場所を越え、わたしは樋口将軍に「出会えた」のである。
 将軍の残された膨大な資料はほとんど防衛庁に移管し保管してあるが、橋本さんは「著作原稿をなんとかまとめて残したい」、「現在手がけているところです」とのお話であった。

 樋口将軍といっても、どのような人なのかわからない場合が多くなったかもしれないが、将軍には、『アッツ、キスカ軍司令官の回想録』という自叙伝がある。現在、これは絶版になっており、私は青森県立図書館から借り出して読むことができた(この回想録はのちに札幌の橋本さんが八方手を尽くして入手し、私に送ってくださった。たいへん有難く感謝している)。もう一冊、相良俊輔著『流氷の海 ある軍司令官の決断』という伝記が光人社から出版されていて、こちらはいまも入手できる。これらの書籍を参考にして、樋口将軍の戦時下の様子を紹介しておきたい。

  キスカ撤退作戦とソ連軍撃破

 昭和十七年八月、将軍は北方軍総司令官として札幌の司令部に着任したが、着任早々、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島駐留は戦略的に無意味、有害であるとの判断から即時撤退を参謀本部に具申した。しかし、翌年には遂にアッツ島へ米軍が大挙上陸し、救援部隊派遣もかなわぬまま、二千六百余名の守備隊は見殺しになってしまった。このことを将軍は終生悔やんでおられたとのことである。その代わりとして、将軍はキスカからの即時撤退を強く要求し、全ての装備を棄てさせながらも奇跡的に全員を救出することに成功したのであった。
 当時、銃を亡くすことがどれほど重大なことであったかを思えば、この決断の大きさが想像できる。撤退作戦は当初潜水艦で行われたが、すでに三隻を失っていた。この日濃霧の中をひそかに湾口に進入した救出艦隊は、僅か五十五分間で五千百八十三名の将兵を全員救出したのである。キスカ島を包囲していた米艦隊は全くそれに気づかず、何日も砲爆撃を加えたうえ上陸し、濃霧のなかで同士討ちまでして、やっと残っていたのは犬四匹のみと分ったとのことであった。
 この部隊は、その後北千島の防衛に当たり、終戦後、不法に上陸を企図したソ連軍に大打撃を与え、北海道占領をあきらめさせることになる。もし、ソ連軍が北海道を占領したとしたら、朝鮮半島、ドイツのように、日本列島は長く分断されつづけることになったことを思うと、樋口将軍の決断と戦いは、戦後の日本の平和と発展の土台を確保したというべきであろう。しかし、これもあまり知られていないかも知れない。しかもその後この部隊はソ連に抑留の苦しみをあじわうのである

  ハルピン特務機関長

 この八年前、昭和十二年(一九三七年)七月七日盧溝橋事件が勃発する。その八月に、樋口将軍はドイツ、ポーランド駐在武官の実績を買われ、満州国ハルピンの特務機関長として着任する。樋口将軍は、着任早々部下に「満州国は日本の属国ではないのだ。だから満州国、および満州国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。悪徳な日本人は、びしびし摘発せよ」と命じていた。
 すでに昭和八年(一九三三年)に政権を獲得していたヒットラーはユダヤ人抹殺計画に着手していた。そのため、多くのユダヤ人が国外に脱出をはじめており、満州、上海、神戸にも、多くのユダヤ人が生活していた。当時の日本政府は、すでに日独伊防共協定を結んでいたが、ドイツ政府からのユダヤ人排斥の要求には中立的な立場をとっていたようである。
 以下は上記「流氷の海」からの抜き書きである。

   極東ユダヤ人大会

 古都ハルピンに厳寒の季節がやってきた。十二月に入ると、気温は毎日零下三十度近くに下がり、毎日吹雪の日が続いた。そんなある夜、ハルピンユダヤ人協会の会長カウフマン博士が樋口を訪ねてきたのである。博士はハルピン市で総合病院を経営する内科医であったが、アジア地域におけるユダヤ運動の指導者であり、実力者でもあった
「夜分に、突然お伺いしまして、恐縮しております。」毛皮の外套を脱ぎながら彼は流暢な日本語で言った。「さっそくですが、実は重大なお願いがあって参上したのです。」
 それはハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可してほしいということだった。アジアに散っているユダヤ人をハルピンに集め、ナチスドイツの暴虐を世界の良識に訴えたいというのである。樋口はドイツでの視察旅行中、山間に建設中の奇妙な建物を目撃していた。
 今にして思えばユダヤ人狩りに備えた収容所であったろうと疑問が解けた思いであった。
 樋口の快諾と激励をうけ、翌年一月十五日ハルピン商工倶楽部で、約二千人のユダヤ人を集めて第一回の極東ユダヤ人大会が開催された。樋口は来賓として出席しカウフマンの求めに応じて演壇に立った。
「諸君らは世界のいずれの国においても、“祖国なる土”をもつことはできない。ヨーロッパのある一国はユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったいどこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行く先を明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って追放しようとするのは、刃を加えざる虐殺にひとしい行為と断じなければならない。私は個人としてこのような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放する前にかれらに土地をあたえよ!安住の地を与えよ!そしてまた祖国をあたえなければならない。」
 この談話はそれぞれの通信網をへて各国の新聞に掲載された。だが、日本の新聞はこの問題について一行もふれようとはしなかった。関東軍が圧力をかけて報道を禁止してしまったのである。関東軍内部ではドイツとの関係悪化を気にして樋口懲罰罷免論も出たが、なんとなくうやむやになってしまった。

  
オトポール事件

 ところがそれから二ヶ月後の三月八日樋口の生涯の運命を決すべき重大事件がおこったのである。事件の概要は次のようなものであった。(ソ満国境の町)と国境を接したソ連領のオトポールという寒村にナチスのユダヤ人狩りから逃れてきた約二万人のユダヤ人難民が吹雪の中で立ち往生している。これらのユダヤ人は満州国に助けを求めるためにシベリア鉄道を貨車にゆられて来たのであるが、満州国が入国を拒否したため、難民は前に進むこともできず、そうかといって退くことも出来ない、食料はすでにつき、飢餓と寒さのために凍死者が続出し。危険な状態にさらされている・・・というのである。かれらはフランクフルトからポーランドに流れこんだのだが、すでに数百万のユダヤ人をかかえている同国は体よくソ連領に追いやってしまったのである。
 カウフマン博士も雪の中を顔面蒼白になりながらすっとんできた。
「博士!難民の件は承知した。だれがなんと言おうと私が引き受けました。博士は難民の受け入れ準備にかかってほしい。」樋口は満鉄本社の松岡洋右総裁を呼び出し、列車の交渉をはじめた。一方ハルピンに満州外交部の責任者を呼び寄せ「満州国は独立国家である。なにも関東軍に気兼ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからといって一緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。ことは人道問題である。未だ国境の寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく早く決心されたらどうか」と力強く説得したのであった。
 それから二日後の三月十二日、ハルピン駅にはカウフマン博士をはじめ、十数人のユダヤ人協会の幹部が救護班を指図しながら温かい飲み物や衣類などの点検に忙しそうにたちまわっていた。
 やがて轟然たる地響きをたてて列車がホームに滑り込んできた。
痩せこけたひげだらけの顔が窓に鈴なりになって並んでいる。期せずして激しいどよめきの声がホーム一杯にひろがった。こうして凍死者は十数人、病人と凍傷患者二十数人をのぞいた全員が商工倶楽部や学校に収容された。
 その二週間後、遂にドイツ外相リッペントロップから、この将軍を処置せよとの強硬な抗議が来た。外務省も陸軍省も少なからず動揺し関東軍司令部に事件の真相を確かめて報告するように求めてきた。さっそく樋口に呼び出しがかかり、新京の参謀長室で、東条参謀長と面談することになった。このとき、樋口の明快な説明に東条参謀長も納得し、不問に付することとして中央に報告すると述べた。樋口は、特務機関長として在任すること満一年、昭和十三年八月二十日、このことで処罰されるどころか参謀本部第二部長に栄転することになる。

 戦後、独立を果たしたイスラエルでは、この恩を忘れぬために黄金の碑(ゴールデンブック)をエルサレムの丘に建立した。そこにはモーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタイン、バルフォアなどに並んで「偉大なる人道主義者ゼネラル樋口」の名が刻まれている。


流氷の海―ある軍司令官の決断 (光人社名作戦記)
(2003/07)
相良 俊輔

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